What is Jazz ?



 ジャズとは何か、とはなにか?
 というほど大仰なものではありませんが、なんぼのトランペット奏者 岡 宏由紀が日ごろ感じていることを綴ったブログ記事を、テーマごとに編集してみました。
 ジャズに対する思いや、楽器のこと、練習上のノウハウ、さらにはジャズを取り巻く周辺情報などについて、四半世紀を超える自身のジャズ体験に基づいた独自の視点で、そこそこに鋭く切り込んでいます。
   ○ ジャズについて(一度ハマったら抜けられないジャズの世界)
   ○ トランペットについて(たかが楽器のとてつもなくディープな世界)
   ○ ジャズ練習法について(迷える演奏者のためのひとつの指針)
   ○ ジャズの群像(個性溢れるミュージシャンたちの人間像)
   ○ 全国ジャズ行脚(全国各地での驚きのジャズ体験記)
   ○ 米子ジャズ散策
(米子及び周辺地域のジャズ関連話題) 
                        ※順次アップしていきます。乞うご期待。



 ○ ジャズについて  ○ トランペットについて  ○ ジャズ練習法について
 ○ ジャズの群像  ○ 全国ジャズ行脚  ○ 米子ジャズ散策






ジャズについて @


1   ジャズコンボの難しさと楽しさ
 ジャズの練習の場合、曲のテーマ→アドリブ→曲のテーマという風に一曲ずつ進行していくのが普通だと思うけど、アドリブは基本的には個人練習の世界。じゃあバンドで集まって練習する意味は何なのかといえば、曲のテーマをキメる部分だろう。もちろん「互いのリズム感に慣れる」などの意義もないことはないが、ただそこは漠然とした要素であって、ジャズ自体漠然とした部分が問われる音楽なだけに、系統立ったバンド練習というものが難しい音楽ではある。

 これが譜面を前提とした音楽であれば、譜面に対する指針のようなものがおのずと生まれてくるんだろう。コンボジャズの場合、「さっきのコードが変」とか、わりとその場の感覚で修正したりするものだから、曲によっては管だけのアンサンブル練習だけ、というのは成り立ちにくい世界だ。テーマを淡々と流して終わりがちである。ただ、そうした練習も地道に続けて、とりあえず「なんぼ」最大の弱点といわれる「キメごとに弱い」点を少しでも解消したい。

 そもそもコンボジャズを志向する人間は「わが道を行く」タイプが多い。ビッグバンドも経験したことあるけど、良くも悪くも人種が違うのでは?と思ってしまう。だから人数が少ないとはいえコンボをまとめるのは非常〜に大変なことなのだ。「なんぼ」がまとまっているのは、それぞれのキャラが奇跡的なバランスを保っているからだろう。もちろん音楽的に同じ方向を向いているのも大きな要因だ。これが違った方向を向いていたら「わが道を行く」人種は本当に「わが道を行く」ことになる。

 ジャズはアドリブという共通言語を持つが故に、ジャム・セッションも容易に成り立つ音楽。逆に、バンドの音楽がジャム・セッションになってはバンドとしての意味がないんじゃないかと、コンボの人間は一度はこの問題に直面する。「わが道を行く」人間が集まってどんな音楽を作るのか。大変なことではあるけれど、同時にやり甲斐もあるような気がする。 


2   我流音楽聴法
 子供の頃から洋楽を聴いて育ったせいで、音楽を聴くときに歌詞を聴くということがあまりない。妙な癖ではあるけど、なにぶん子供だから英語の歌詞なんて分かるはずもなく、ひたすらメロディと伴奏だけ聴く習慣が知らない間に身に付いてしまった。だから「あの歌詞いいよね」と言われると困っていた。歌詞聴いてないんだから…

 中には「あの歌詞泣けた」という人もいるし、まぁ歌詞に伴うメロディが渾然一体となって涙を誘うのだと思う。歌詞を聴かないという意味ではボーカリスト失格だろう(それでなくても失格か)。しかしそんな聴き方をしてた分、メロディやコードの流れの中に漂う「歌」を感じるのは得意だ。メロディだけでも充分に泣けるのである。

 このことは逆に、日本人でも英語の歌詞に思いを込めれることを意味している。中には「日本人は日本語だろう、てやんでぃ」と言う人もいるけど、そんなことはない。どころか、スキャットだって全然構わない。チェット・ベイカーのように、楽器と歌が限りなくボーダレスな人もいる。どっちからも歌詞が聴こえてくるし、どっちも楽器のようだ。

 物心ついた時分から、そんな聴き方をしていたんで、ラッキー(というか何というか)なことに、最初にジャズを聴いた時も、難解音楽だとは思ったけど、アドリブ部分はおそらく決まった箇所をリピートしてるんだろうなということは理解できた。初期の頃不思議に思ったのが、テーマは違うんだけどまったく同一ではないかと思える曲が存在すること。後にジャズマンは著作権逃れでしばしばスタンダードのコード進行だけ借りてきて、適当なテーマを作るという事実が判明した。チャーリー・パーカーなどはその常習犯で「バード・オブ・パラダイス」は「オール・ザ・シングス・ユー・アー」だし「クヮシマド」は「エンブレイサブル・ユー」やんか。マイルスの「ディグ」も聴いた瞬間「スイート・ジョージア・ブラウン」だと思った。何考えてるのか(笑)

 そんな訳で、基本的に楽器と歌を区別する習慣がないもんで、「楽器だけの音楽はよく分からん」という意味がよく分からない(笑)楽器も歌も、込めた思いは同じように伝わると思うので、そのあたり、あまり先入観なしに音に浸った方が楽しい。ただ、ボサノバだけは別だ。ボサノバの歌い方は、ヴォイスでしか表現できない領域があるような気がする。

 で、やっぱりイメージでコミュニケイトすると、特有の面白さがある。それが快感で長い期間ジャズというか即興演奏をしているというのもあるけど、言葉にすると何だか難解で分かりにくくなってしまう。ただ、自分では気付いていない色々な五感以外の感覚があるんだなと思う。


3   百回聴けるアルバムを聴きたい
 特に時間を割いて深く研究している訳ではないけど、1980年代以降の音楽と、それ以前の音楽では質感というか、思想が異なるような気がしている。

 80年代の日本の印象的な出来事といえば、85年に電電公社が分割民営化され、翌年には国鉄が解体された。この頃、経済的にはバブルの真っ只中。今思い出しても正気の沙汰では無い事業・生活様式がはびこっていた。ときの首相は中曽根康弘(82―87年)で、この頃から軍事的・経済的に露骨にアメリカに協力姿勢を打ち出すようになったような印象を受ける。米レーガン〜中曽根協調路線は、後のブッシュ〜小泉を思わせる。アメリカ協調路線を推し進める首相は、経済的には規制緩和など、自由主義的発想に基づいた政策に走る。個人的には、そうした中で経済構造の変容が音楽、いや音楽産業に強い影響を与えているんじゃないかと推測する。

 1960年代後半から1970年代初頭にかけてのアメリカの音楽は、ベトナム戦争のカウンター・カルチャーとしての色彩が強く、より内省的な、いわば思想を持った曲などが多く創られた。当然、日本もその影響を受け、フォークなどの思索的な音楽が流行する。音楽的にはメロディを重視した曲が趨勢を占めている。

 80年代に入ると、音楽を取り巻く様相は一転。レコード媒体からからCD媒体への移行、シンセ音源の普及、アイドルの誕生などなど、よりポップな方向にシフトしていった。今で言うグローバリズムのさきがけとなる中曽根政権の政策によって、企業の利潤追求の姿勢が明確に肯定されるようになったのもこの頃ではないか。アメリカにおいては既にもっと以前からそうした傾向が見られる。

 アイドルの誕生は象徴的だ。それまでは、いくら商業音楽といえど、ミュージシャンを主体として音楽が成り立っていた(例え表向きでも)。だが、アイドルは、そのネーミングからして開き直ったもので、偶像、いわばコマーシャリズムによって仕掛けられたイメージの世界が主体となって物事が展開する。このあたりからレコード業界・プロダクション・テレビを中心とするメディアが一体となった動きが顕著になってくる。ミュージシャン=商品というスタンスだ。

 こうなると需要に見合ったイメージを維持できなくなったミュージシャン、歌手は必然的に用済みになってしまう。まるでコンビニ弁当のように、次から次へと新商品が出されては消え去っていく。経済原理に組み込まれてしまったのだから仕方がない。

 そもそもミュージシャンというものは、己の存在自体が香り立つようなイメージを放っているものである。イメージとは生き方そのもので、それが音となり聴く者を魅了する。本来、戦略によって作られるものではない筈だ。チェット・ベイカーのようなミュージシャンは二度と現れず「チェット・ベイカーの再来」ばかりが多産される昨今のジャズ・シーンは、いかにも寂しい。個人的にはミュージシャンの容姿なんかはどうでもいいんで、せめて百回は聴くに耐える音楽商品をリリースして欲しいものだ。


4   バンド活動が目指すもの
 今日は超多忙な仕事を終わらせてから田中啓三としみずりえの3人で8日のケーブルTV番組の打ち合わせに行ってきた。進行についての打ち合わせだったが、「バンド活動のどこがいいと思うか」とか「バンドでどういう風に地域貢献をしていきたいか」「夢は」などの質問に、一同、とりとめのない回答をしてしまった。普段何も考えてないことがばれてしまう(苦笑)

 個人的にそのあたりを整理してみると、月並みかも知れないけど「音を通してコミュニケイトする」という部分がバンドとしての楽しみだろう。お喋りが楽しいのと同じ理屈である。即興演奏を通して喋っているような感じと言えばよいのか。こっちが音を出したら、周囲が何がしか音で答える。それに対して話題を変えることも可能だし、話を発展させていくことも可能だ。互いに音を使って、共同でストーリーを描いていく。会話でも同じことだが、言葉を使わない分、より抽象的でイメージの世界に近い。言葉でのコミュニケイションが、言葉によって物語を明確にし、イメージの輪郭を浮かび上がらせるのに対して、音のコミュニケイションは、物語そのものの中に入り込んでしまった上で、より感覚的に物語を紡いでいく。例えばピアノがC7のコードをがんと弾いた時に、どんな絵が浮かんでくるか。その瞬間の気分によって思い浮かべる絵はまちまち。そこでBbを吹くのかDを吹くのかでは次にピアニストが見る絵もおのずと違ったものになるんじゃないか。多分。

 で、やっぱりイメージでコミュニケイトすると、特有の面白さがある。それが快感で長い期間ジャズというか即興演奏をしているというのもあるけど、言葉にすると何だか難解で分かりにくくなってしまう。ただ、自分では気付いていない色々な五感以外の感覚があるんだなと思う。

 ところで、そもそも音楽を志向する人間は個人主義的傾向が強いだけに、「どんな地域貢献」というのが最も答えにくい質問であるに違いない。しかしそれについては、満更考えてなくもない。もちろん地域貢献なんて大それた話ではまるでない。一つ言えるのは、マイナーなものをシコシコやる人間が増えると面白いんじゃないかな、と思うけど、いかかでしょうか。はたから見ると「何の得があって」とか「何が楽しくて」とか思うようなことに異様な情熱を燃やして取り組む人って、個人的には結構好きです。そんな姿に勇気付けられることも結構あったりする。色々な人間がいた方が地域も楽しいのでは、と勝手に決めつけた上で、その構成員でいることが地域貢献につながればと、思ってる、かも知れない。


5   ジャズのフォームについて
 NHK教育テレビで8日から4週にわたり毎週火曜日に、私のこだわり人物伝―マイルス・デイビス 帝王のマジックという番組が放映される。普段ほとんどテレビを観ない私だが、菊地成孔のマイルス・ガイドとあって思わずチャンネルを合わせる。菊地のちょっとくだけた、それでいてきちんと本質を押さえたコメントが面白くて、あっという間に時間が過ぎた。その中で「ビ・バップはスポーツ」という比喩が可笑しかった。「スポーツだから譜面なんて見ない。コード譜を見て演奏する」と。

 ジャズの歴史書などによると、ビ・バップはあたかもスウイング・ジャズの発展形であるかのような印象を受けるが、ビ・バップ出現当時、この二つの音楽を同じ「ジャズ」でくくれる人はおそらくいなかったんじゃないかと思う。今にして思えば突然変異と言ってもいい。どっちが良い、悪いではなくて、形式の洗練度という点ではビ・バップの方が遥かに高く、それどころかビ・バップはジャズの即興演奏フォームの最終形と言っても過言ではない。これを一人で創造したんだからチャーリー・パーカーはやっぱり凄い。お陰でジャズは40年代の十年間で一気に音楽的頂点を迎えてしまった…というのは大袈裟だが、ジャズ的なものの8割はチャーリー・パーカーの出現でやり尽くされた感がある。残りの2割をやり遂げたのがマイルスだろう。この二人が本当にジャズをやり尽くしてしまったので、必然的にマイルスはジャズ以外の、マイルス・ミュージックとしか言いようのない音楽を追究していくようになる。マイルスはジャズにかかわった期間より、マイルス・ミュージックにかかわった期間の方が長いアーティストだった。

 話を元に戻すと、ビ・バップのプレーヤーがテンポ300などと超激早なテンポで演奏できるのも、そこにきっちりとしたルールがあるからだ。厳格なルールに従って運指の速さや正確さを競い合うところなど、まさにスポーツだ。ルールが洗練されているからこそ、どんな人でも参加できる形式美はあるが、チャーリー・パーカーが恐ろしいのは、技術的な合理性の中に閃きがある点である。例えば、一般的には全盛期を過ぎたといわれる頃のヴァーヴ盤「ナウズ・ザ・タイム」の中の「コンファーメイション」のアドリブはどうだろうか。興が乗ってきた2コーラス目のサビのフレーズなど、まさしく天才の閃きだろう。個人的には案外とヴァーヴ期のパーカーが好きで「ウィズ・ストリングス」の「ジャスト・フレンズ」も、ちょっと異常なぐらいの歌心だ。こうなると練習云々の話ではなくなってくる。パーカーにしか創造できない音楽なんだなと納得せざるを得ない。50年代のいわゆるハード・バップは、基本的にはビ・バップと同じ。ビ・バップがスポーツに傾き過ぎた反省を踏まえ、テーマのアンサンブルなど、やや音楽に立ち返ったのがハード・バップか。 

 話は急に変わるが、「なんぼ」で「椰子の実」を採り上げたのは、ジャズ即興のスポーツ性を極力排除したかったからにほかならない。しかも、イントロ部分ではハーモニー的な制約も極力無くした。「海を漂う椰子の実の雰囲気を音でどう描くか」がコードの代わりとなるガイドという訳だ。そもそも何で12音階なのか。そもそも音楽が12音階で済むはずないだろうと思う。それは飽くまでもルール上の問題である。調性音楽である以上、何らかのルールを必要とするのは仕方ないが、その合理的なものの一つに12音階の概念があるに過ぎない。絶対的なものではないはずだ。そんなこんなで、ジャズのフォームについて、つらつらと書き連ねてみた。


6   マイルスの反体制的な格好良さ
 NHKのマイルス特集も佳境に差し掛かり、昨夜はサイケデリック・マイルスまできた。来週で終了するそうだ。それにしても・・・マイルスの格好良さは尋常じゃない。

 これはもうむちゃくちゃ独断で反論もあろうが、やはりアーティストは反体制的じゃないとイカンと思う訳です。なんでかと言うとアートというのは精神の解放を武器に宇宙の普遍的な法則を勝ち取る、一種の闘争なんだから、社会の体制とは背反せざるを得ない宿命を負っていると思うからだ。タフじゃないとアーティストが務まらないのは、実にそうした重荷をしょっているからに他ならない。先日も飲みながら話しをしていたが、アーティストと呼ばれる人達が国家の褒章などを喜んで受け取る姿に違和感を覚える。個人の精神の自由を最も嫌う国家から栄誉を称えられて素直になれる人は、もはやアーティストとしての精神を失ってしまっていると言わざるを得ない。

 ジャズは人種差別の賜物、というのは事実だ。差別されたことに対する怒りのパワーが、ジャズの歴史を作ってきたと言っていい。だから、人種差別が沈静化する世の動きに比例して、ジャズは輝きを失っていった。50年代のは白人プレーヤーにしても「ジャズは黒人のもの」という劣等感みたいな意識があって、それ故に、白人ジャズのアイデンティティを熱心に追求していたんだと思う。「ざーけんじゃねえよ」「うるせぇんだよ」といった雰囲気がジャズマンからすっかり無くなってしまったのは寂しい。ジャズの世界だけじゃないけど。

 「ざーけんじゃねぇよ」と叫ぶ人はナンボでもいるんだけど、そのパワーを芸術へと昇華するプロセスに耐えることのできる人は少なくなった。短絡的に犯罪者になってしまうケースが多い。
 
「ワイト島のロックフェスティバルでマイルスが曲を訊かれた時何て言ったと思う?」
「どうとでも呼びな」と言ったのさ!

「So What(それがどーした)」の他にも必殺技があったとは驚きだ。「どうとでも呼びな」・・痺れる(笑)こんなセリフが絵になるミュージシャンはそうそう居ない。まぁ、セリフだけじゃないけど、ジャズから始まって常に変化し続けたマイルスについては、好き嫌いはともかく、アーティストだな、と思う。

 番組の中でびっくりしたのが突然登場した近藤等則。げー生きとったんかという驚きと、今でもフリー系を演ってる点。しかもビル・ラズウェルとだ。こっちも凄いインパクトを受けた。


7   半音進行の快感
 チェット・ベイカーは生前、普通ジャズマンがあまりやらないような曲も主要レパートリーに採り入れてていた。例えばブラジルのピアニストのリッキー・パントージャの「アーバウエイ」や、「リーヴィング」など。マイナーだけど凄くいい曲なので私も自分のレパートリーとして演奏している。しかーし。共演者には難しいと不評だ(笑)

 明日ミラージュでも演奏する予定の「アーバウエイ」は、前半のコード進行を書くとEbMaj7→EbMja7→Ebm7→Ebm7→AMaja7→AMaj7→Am7→Am7→GMaj7→GMaj7→Cm7→Cm7→AbMaj7→AbMaj7→Dbm7→B7というもの。ジャズを演奏する人ならこのコード進行だけでどんな雰囲気の曲か分かると思う。そう、非常に美しいボサノバ・ナンバーなのだ。多分「やりにくい」と思われる理由はUm7→X7→T進行がないからだろう。

 作曲したのがブラジルのミュージシャンということもあって、こういうコード進行の肝は、半音進行をいかにメロディックに展開するかにある。Um7→X7→TのX7の裏コードに当たるUb7のモーションと基本的には同じ。それだけに、フレーズを知らなくても、同じ音型で三度と七度を半音下げるだけで、それなりにサマになってしまうので、むしろやりやすいといえばやりやすい。というか、Um7→X7→T進行自体に半音進行は含まれている訳で、考え方としてはあまり違わない。

 こうした半音進行の気持ち良さがボサノバの心地良さでもあるんだけど、個人的には五度進行よりもこっちの方が好きだ。五度進行は頭ではきちんと収まる感じがするが、半音進行はもっと生理的な快感を刺激する響きがある。と思いませんか?「ジャスト・フレンンズ」も最初の四小節の響きがそんな感じで好きです。


8   トランペットやバンドについての雑感など
 もともとトランペットを始めたきっかけはジャズが好きで、それもマイルス・ディヴィスとかチェット・ベイカー、リー・モーガンなどが好きで、この楽器以外をやるのは正直考え付かなかった。お陰で苦難の道を歩んでいる訳なのだけど(笑)

 それで、たまに「何のためにトランペットをやっているのか」という命題を自分に問い掛けてみるのだけど、我ながら、なかなか難しい質問だ。単純にマイルスやチェット・ベイカーみたいにトランペットを吹いてみたい。そんな答えが一番フィットするように思う。何か特別な理由があるのでもなく、ただ単に子どもの頃に衝撃を受けた彼らのように楽器を吹いてみたい。そんなところなのかな。三つ子の魂百まで。これはある意味真実で、世のお父さんお母さんはその点に留意されると良いのかも知れない。なんて偉そうに言ってみたりして。

 残念ながら現時点ではその願いは叶わず、だから妙にストレスを感じることも少なくなく、やっかいなものだ。でもやっぱり、彼らのように吹いてみたいと思う。その時には一体どんな世界が見えるのか。それが知りたい。

 それと、バンド。いいバンドはそれ自体が大きな楽しみになる。幸い現在は「なんぼなんでも」があるので、「バンドで音楽をする」こと自体が結構楽しい。世代を超えたメンバーが、楽器のレベルに関係なく、もちろん社会的な肩書きなどには関係なく、何か一つの目標に向かって邁進する。個人的には「あり得ない」事態だと思っている。だから「なんぼ」のメンバーは一人一人が主役であり、脇役であってもいい。

 「バンドをやること」と「ステージをやること」は違うと、昔から思っている。ステージの主役はお客様。この点は明らかで、そのへんの立ち位置は誤りたくないなと思う。その上で、僕らの未完成な音楽をどう楽しんでもらうかを、いつも考える。そういう意味では僕は現場監督のような役割を担っているのかも知れない。密かにMCの研究をしているのもそのためである(笑)「満足してもらえるようなステージをやること」このことに関してはプロもアマも同様なんだと思う。

 しかし、それに伴い、演奏クオリティを上げていかなければいけないのも確か。もちろん私も人のことは言えず、ここ数ヶ月にわたる長いスランプにどうにも困り果てている状況だ。各自が多忙な中、それぞれの課題と向き合っているのは分かるが、それ以前に、何というか、ジャズを演奏する上でのコンセンサスのようなものをメンバーで共有しないと駄目なんじゃないかと思う。

 鳥取の方々の演奏を聴いて改めて思ったのが「曲には形式がある」ということ。当然なんだけど(笑)A部分とサビ部分が同じ表現でいいハズない。あと「周囲の音を感じる」こと。これが「なんぼ」は弱い。弱過ぎ。とにかく自分のプレイに夢中になっていては駄目だ。周りを聴いてプレイしなきゃ。などと厳しい展開になったが、そもそもジャズは厳しいんである。譜面に頼らないということは、コードやリズムに対して自分が責任を持つということだ。


9   ジャズ的語法について
 バンドにおける「コンセンサス」というのをもっと具体的に説明すると、その前提として「ジャズ的な語法」というのがある。

 例えば前回のライブで鳥取のピアノ・トリオの人達がやっていたように、「グレイター・ラブ」のテーマなどで、サビのところを一発気味にすると、その結果ベースがペダル風になって、必然的にドラムもそれに合わせた緊張感のある叩き方になるとか。ある程度前もって決めておくことも必要だけど、「こうなったらこうなる」みたいな引き出しは、やはり最低限はあった方がいい。それを増やす練習というのも大切ですなぁ。で、AABAの最後のAはドラムがハイハットでリズムを刻むなど、そうすることによって最初のAAと違うAが表現できる。曲をどうカラーリングしていくかが勝負だ。

 そのあたりの語法は、やはり聴いて学ぶしかないかな〜。CD或いはレコードを聴きまくる、みたいな。そしてジャズのみならず、ほかの多くの音楽を聴くともっといいんじゃないだろうか。「ボサノバならこんな感じ」といった引き出しをたくさん準備していればいる程、より多彩な表現ができるというもの。聴くのも練習のうちですね。

 と、まぁ偉そうなことを言ってはいるけど、自分も全然できてない(笑)ただ聴くだけは聴いてきたので、例えばジャズ・スタンダードなら知らない曲は多分そう多くはないだろう(?)大抵のスタンダードは知っていて、どんなイメージかは何となく分かっているつもりだ。その割にはプレイに反映されない訳だけど(笑)

 とりあえず練習の中でも、曲のイメージというか、そんなのを具体的に言葉で話し合ったりできるといいなと思う。「いかに上手そうに聴かせるか」もテクニックの一つである。


10  音楽をやることの厳しさ
 米子市皆生温泉にある「菊乃家」という旅館のオーナーは自らがミュージシャンで、毎週土曜・日曜はオーナー自身によるロビー・コンサートがあるのだけど、そこに月一回、「なんぼなんでも」が出演させて頂いています。オーナーは「山陰の森進一」の異名で知られる有名人。歌といいステージ運びといい、本当に凄い人なんですよ。そのステージに恥じないように、「なんぼ」も頑張らねば。

 という訳で、ライヴ後に、久々に「なんぼ」の反省会。とりあえず12月に集中するステージを視野に曲決めなどをした。12月と言ってももう一ヶ月強。そんなに期間はないのだけど、とりあえずレパートリーの刷新を目指している。大変なことではあるけど、やはりある程度量をこなすのも練習のうちで、少々無理することも必要なのだ。

 その中で厳しい発言も飛び交う訳だが、個人的にはリズム隊の皆様に頑張ってもらいたい。というのも、リズムは音楽の土台。土台が傾いていたら、どんな家を建てても所詮傾いた家しか建たないのだから。これもまた個人的な考えだけど、メトロノーム250ぐらいは最低限、キープできるようにしてほしいものだ。(ほんとは300と言いたいところなんだけど)「ジャズ」を演奏するためには避けては通れない関門である。いや、実際にジャズは難しいもの。越えなければならない壁は本当に多い。

 あと、バンドとして言えることなんだけど、「音楽をやる」ことを考えることが大切だ。当然、譜面をなぞることと音楽やることは全然別な行為で、例えば東京JAZZに出演していた「デューク・エリントン・ビッグ・バンド」など、ビッグ・バンドでありながら、個々が非常に音楽的と言うか、「音符をなぞって満足」の次元とは明らかに違う。「この曲を自分はどういう音で表現したいのか」がといった意思が明確なのである。そのあたりをもう一度見直してみようと考えている。「上手い、下手」の問題ではなくて「言いたい言葉があるのか、ないのか」それが最大のポイント。

 などと、厳しいようだけど、それは即興することの責任のようなものだ。自分の音に対する責任が即興演奏にはつきまとう。これは仕方のないことだと思う。だからこそ楽しいのだけれど。やっぱりね、厳しくない音楽というのはあり得ないと思いますね。楽しいだけでやれる音楽は、おかしい。だから「楽しい」とか「癒やし」とか演奏する側が前面的に押し出すべきものじゃない(キャッチコピーとしてはあり得るけど)。「楽しい」「癒やし」を求めるのであれば、それこそ温泉に行った方が断然いい。という訳で、皆様、自分に厳しく音楽と向き合いましょう。


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